J・D・カー『絞首台の謎』

 『絞首台の謎』(1931年)はジョン・ディクスン・カーの長編第二作で、初めてイギリスを舞台にした作品である[i]

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。ところが、1976年に創元推理文庫で刊行され、手軽に読めるようになった[ii]

 以上は、『夜歩く』について書いた文章を少し手直ししただけのものである。カーの作品については、半分以上、上記の文章で間に合うだろう。

 閑話休題(古いな)。『絞首台の謎』は、アンリ・バンコランを探偵としたシリーズの二作目でもあり、二つ目の事件で早くもパリを離れて、異国で事件に取り組む(もっとも、シリーズ一作目の「山羊の影」がすでにイギリスを舞台にしており、一体なぜフランス人探偵を主人公にしたのか、理解に苦しむ。というより、わざわざフランス人探偵を創造しておいて、なぜこのアンリ・バンコランという男は、あちこち外国へ出向くのか。よほど暇なのか)。バンコランの人物造形にはエドガー・アラン・ポーの影響などが指摘されるが、そしてまたカーがフランス、とくにパリに魅かれていたのも事実だろうが、バンコラン・シリーズの四長編の舞台は、フランス、イギリス、ドイツ、フランスで、アメリカ作家のカーがアメリカの読者に向けて書いた、いわば無国籍ミステリのシリーズだった。

 さすがにアメリカが舞台では、バンコラン・シリーズのような世紀末的怪奇幻想ミステリは現実味がない(ヨーロッパなら、あるというわけでもないが)、と判断したのだろう。五作目にして初めてアメリカを舞台とした『毒のたわむれ』(1932年)で、バンコランをはずしたのも納得に思える。

 ともあれ、ダグラス・G・グリーンが「フェアプレー精神による推理操作にサスペンスと雰囲気を完全に結合させた」[iii]と評したカーの作家的特徴は、これら初期の四作に完璧に当てはまる。「カーの手にかかると、ドアを開けるような日常的な動作までが恐怖と怪奇性を帯びてくる」[iv]。これもグリーンの言葉だが、まさにバンコランのシリーズはカーの怪奇幻想性がレンズ越しに極大化されたかのような印象を与える。ただし、カーには、こうした怪奇幻想ミステリを絵空事に終わらせない筆力があったことは認めておかなければならない。二階堂黎人が「カーが《非現実的》だという主張」に反論して、「動機とか人物設定の面では、すごく大人の社会を扱っている」と述べている[v]が、カーがある意味でリアリズム作家であったことは確かだろう。彼はどうやら、自分が見聞きした現実でなければ書けない作家だったように思われる。『絞首台の謎』や次作の『髑髏城』(1931年)が『夜歩く』発表後のヨーロッパ旅行(1930年)での見聞に基づいている[vi]ことはよく知られているが、後年、カーが熱を入れて書いた歴史ミステリをみてもわかる。現代ミステリから見れば、一種のファンタジーだが、あくまで歴史に基づく空想であって、純粋な異世界ミステリやSFミステリなどはカーには書けなかったようだ。

 そのリアリズムを支えるのが細部の描写で、『絞首台の謎』でも、例えば、被害者が住むクラブの居室の様子が事細かに描かれる[vii]。多分にペダンティックなものだが、こうした具体的な描写の積み重ねが、子供だましの紙芝居と揶揄されかねないプロットを、少なくとも読んでいる間は、薄っぺらな張りぼてに見せないリアリティを与えている。

 それでは、肝心のパズル・ミステリとしてはどうだろうか。

 処女作の『夜歩く』は、一人二役や密室など、大掛かりなトリックを駆使したパズル性の強いミステリ長編だったが、プロ作家となって、作者も意気込んで書いたはずの本作の評価は、あまり芳しくない。新訳本で解説を書いている若林 踏が引用しているグリーンの「怪奇的な探偵小説あるいは探偵の出てくる怪奇小説」という評価[viii]はむしろ誉め言葉で、パズル・ミステリとしての評判は低い。江戸川乱歩の「カー問答」では、第三位の十作の中に入っている[ix]が、松田道弘の「新カー問答」では「カーの作品の中でも最悪のひとつ」[x]と切り捨てられている。二階堂黎人の「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」では、D級の八作品のひとつで、「グロテスク趣味が、この作品の何よりの取り柄」という評価[xi]である。

 確かに、ロンドンの街路を暴走した自動車から喉を切られた運転手の死体が転がり出て、他には誰の姿も見えない、という冒頭の殺人の謎や、ルイネーションという存在しない街が深夜のロンドンに突如出現して、そこには絞首台が立っていた、という驚天動地の謎が、解かれてみると、拍子抜けするようなたわいない解決で、これでは到底謎解きとして満足できるものではない。若林は、「謎解き小説の核である謎やトリックが、怪奇幻想譚として小説を完成させるための一つのピースとして見なされるという、アンリ・バンコランものの特徴がこの″ルイネーション″をめぐる謎に良く表れている」[xii]、とバンコラン・シリーズの本質に触れながら、高い評価を与えているが、この見方だと、バンコランものの長編は本質的にパズル・ミステリではない、ということになってしまいそうである。

 なるほど、『絞首台の謎』以下のバンコラン長編を、ギデオン・フェル博士、ヘンリ・メリヴェル卿のシリーズと比べて、面白いかと言われると、面白くないと言わざるを得ないし、その面白くない理由は、やはりトリックや謎解きのレヴェルの差にある。しかし、バンコランのシリーズが謎解きやトリックより、怪奇な場面や幻想的な雰囲気を描くほうに重きが置かれているか、というと、そうとも言えないところがある。

 『絞首台の謎』で一番パズルとして面白いのは、クラブを出ていった被害者が実は密かに戻ってきて、クラブ内で犯人に拘束される、というアイディアである。大方、シャーロック・ホームズの短編[xiii]から発想したのだろうが、このアイディアが優れているのは、被害者の行動によって犯人のアリバイが成立するところで、『帽子収集狂事件』の原型といってもよい。ただし、真相を解く手がかりが、手袋に着いた汚れのような曖昧なものなので、あまり推理に説得力がない。

 反面、犯人を特定する推理には、相応の伏線が敷かれている。『夜歩く』に比べても、この点では優っており、むしろトリックよりも、犯人推理のほうに見るべき点がある。ことに、冒頭で担当警部にかかってくる犯罪を告げる怪電話をもとにした推理は、日本のミステリ長編にも類似例がある[xiv]

 以上を見るに、『絞首台の謎』は決してパズル・ミステリとしての面白さをなおざりにしてはいないが、1930年代半ばの諸作品のようなずば抜けたアイディアやトリックには恵まれていない。しかし、カーが通常のミステリとは異なる特色をこのシリーズで打ち出そうとしていることも事実であるようだ。それは怪奇幻想というものとも異なる、やはりアンリ・バンコランという特異なキャラクターによるものである。

 『絞首台の謎』の冒頭の殺人は、まさにつかみはオー・ケーというようなセンセーショナルなものだが、事件が進むと次第に忘れ去られてしまう。被害者に関する詳しい身元捜査もされないし、死者が運転する自動車、という奇怪な謎も、あまりにたわいないため、気がさしたのか、バンコランも興味なさげである。何よりも、冒頭の殺人が印象に薄いのは、これが主となる殺人ではないからである。被害者は拉致監禁されるが、殺されてはいない。殺害される直前に、バンコランによって犯人が逮捕されるので、金田一耕助に見習ってほしいような名探偵振りを発揮する。しかし、本当の殺人が起こるのは、実は事件が解決してからである。そこが本作の前代未聞なところだ。

 犯人が復讐を果たせぬまま捕えられた後、今度はバンコランが被害者を追い詰めていく(いたぶっていく)。被害者を嘲り、首にはめられた拘束具を外そうともせず、煽り続け、脅し続ける。ついに我を失った被害者は落とし戸から落下して、首を絞められて死ぬ。つまり、本作は、名探偵が一旦救出した被害者を殺害する、というミステリである。本書の幕切れの、バンコランの悪魔性を端的に表現しているとされる場面[xv]は、まさに完全犯罪をなしとげた殺人者の凱歌だったわけだ。

 

[i] 短編小説では、プロ作家デビュー以前に、大学文芸誌に発表した「山羊の影」(1926年)などがある。

[ii]『絞首台の謎』(井上一夫訳、創元推理文庫、1976年11月)。

[iii] ダグラス・G・グリーン「奇跡を創り出した男-ジョン・ディクスン・カーについて」『カー短編全集4 幽霊射手』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1982年)、14頁。

[iv] 同、15頁。

[v] 芦辺拓二階堂黎人「地上最大のカー問答」、二階堂黎人『名探偵の肖像』(講談社文庫、2002年)、322-23頁。

[vi] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、95-98頁。グリーンは、1930年6月21日にカーと友人のオニール・ケネディはベルギーに向かい、7月4日にはハイデルベルクのホテルに泊まった、と書いているが、同じ年の6月末には、イギリスを出発した旅船にフランスから乗り込んだ、とも書いていて、記述内容に矛盾があるようだが、どちらが本当なのだろうか。

[vii] 『絞首台の謎』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2017年)、141-42頁。

[viii] 同、286頁、『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、101頁。

[ix] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、316頁。

[x] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、203頁。

[xi] 二階堂黎人『名探偵の肖像』340、344頁。

[xii] 『絞首台の謎』(和邇桃子訳)、287頁。

[xiii] コナン・ドイル「技師の親指」『シャーロック・ホームズの冒険』(1892年)所収。

[xiv] 結城昌治『ひげのある男たち』(1959年)。

[xv] 『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、105頁。

Bee Gees 1969(番外編)

マーブルズ「君を求める淋しき心」(The Marbles, The Walls Fell Down, 1969.3)

1 「君を求める淋しき心」(The Walls Fell Down, B, R. and M. Gibb)

 「オンリー・ワン・ウーマン」の成功に味をしめたのか、マーブルズの第二弾は、明らかに前作の二番煎じだった。三拍子と四拍子を組み合わせていることぐらいが新しい工夫で、ほかに新鮮味はない。ヘヴィーなサウンドは「獄中の手紙」を思わせるが、ボネットのヴォーカルは前作に比べると、やや抑制されて、コーラスが前面に出てきているようだ。

 ボネットに「退屈な曲だ」と言われて、バリーは怒ったようだ[i]。それは怒るだろうが、ボネットの言い分にも一理ある。

 決して駄作ではないが、やはり物足りない。イギリスのチャートでも28位と低調だった[ii]

 

2 「ラヴ・ユー」(Love You, B, R. and M. Gibb)

 こちらも前作の「キャンドルのかげで」同様のブリティッシュ・ポップ。ヴォーカルはトレヴァー・ゴードンが取っているが、むしろビー・ジーズ名義の曲以上に、60年代らしさを感じさせる作品となっている。ホリーズなどを連想させる、センチメンタルなメロディの佳曲だ。

 むしろ楽曲としてはA面より優れている。マーブルズ向き、あるいはグレアム・ボネット向きとはいえないが。

  

マーブルズ「誰も見えない」(The Marbles, I Can’t See Nobody, 1969.5)

1 「誰も見えない」(I Can’t See Nobody, B. and R. Gibb)

 グループ内のごたごたで、もはや他のグループに曲を書いている場合ではなくなったのか、あるいはマーブルズのほうで、もう曲はいらないといったのか、第三弾はビー・ジーズの旧作のカヴァーとなった。確かにマーブルズには合っているだろうが、残念ながら、セールスは伸びなかった。

 原曲よりアップ・テンポで、切迫感を強調したのは面白いアレンジだったが。

 ちなみに、1970年に発売されたアルバム[iii]には、「トゥ・ラヴ・サムバディ」も収録されている。「誰も見えない」とは逆に、極端にテンポを落としたスロー・ヴァージョンで、ボネットの雷鳴のようなヴォーカルが炸裂するソウルフルなカヴァーとなっている。面白いのは、後年ビー・ジーズが発表するライヴ・ヴァージョン[iv]がこれに近いアレンジになっていることだ。

 

2 「リトル・ボーイ」(Little Boy, B. and M. Gibb)

 他のグループに曲を書く余裕はなかったのでは、と記したが、B面はまたバリーがモーリスと書いた曲を収録している。共作といっても、恐らくバリーがギターを弾いているうちに、何となくできた曲なのだろう。弾き語り風のフォーク・バラードだが、焦点が定まっていないような印象の曲で、どういう曲を書くかという目標も決めずに、やはり何となくできた曲のようだ。

 とはいえ、メロディはそれなりに魅力があり、ストリングスも美しい。また、ビー・ジーズの「サン・イン・マイ・モーニング」と曲調や雰囲気が共通していて、そこは興味深い。

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タイガース「スマイル・フォー・ミー」(The Tigers, Smile for Me, 1969.7)

1 「淋しい雨」Rain Falls on the Lonely(R. F. Bond and R. Sebastian)

2 「スマイル・フォー・ミー」Smile for Me (B, R. and M. Gibb)

 日本では、1969年7月25日にリリースされたタイガースのシングル・レコード。

 というか、イギリスでも発売されていたとは知らなかった[xi]。しかもB面だったとは。

 タイガースがビー・ジーズの楽曲をレパートリーとしていたこと、とくに加橋かつみが「ホリデイ」を歌っていたことは、当時よく知られていた[xii]が、同じポリドール・レコードから発売されていたこともあって、1968年には、電話による対談も実現していた[xiii]。そうした縁があって、タイガースの海外映画ロケ先のロンドンで、バリーとの対面の様子が撮影され、日本盤のシングル・ジャケットには、コラージュされた写真のなかに、タイガースの4人と並んでいるショットや沢田研二とのツー・ショットが含まれている(バリーはなぜかゴーカートに乗っている)。

 曲は、あまり個性のないバラードだが、口当たりのよい甘いメロディがバリーらしいといえるだろう[xiv]。「フォー・ミ~」のリフレインでフェイド・アウトしていくラストは、いかにもビー・ジーズっぽくて、微笑ましくもある。初来日のときのインタヴュー(1972年)によると、本作は、最初マット・モンロー[xv]のために書いた、と(バリー?が)答えている[xvi]。意外な人選だが、このことはバイオグラフィにも載っていないので、貴重な情報といえる。

 「スマイル・フォー・ミー」は、日本では『オリコン』で3位となり、30万枚近くを売り上げた。ビー・ジーズにとって、「オンリー・ワン・ウーマン」に次ぐ、ソング・ライターとしての成功作だった[xvii]。しかし、このセールスには、日本ではB面扱いだったが、キャッチーなメロディの「淋しい雨」の人気も大きく貢献している(それで、イギリスではこちらがA面になったのだろう)。いわば、両面ヒットだったといえよう[xviii]

 

[i] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1969.

[ii] しかし、オランダでは、何と2位だったらしい。C. Halstead, Bee Gees: All the Top 40 Hits (2021), p.49.

[iii] Marbles (Polydor, 1970, 2003). 全12曲で、ギブ兄弟の楽曲は、「誰も見えない」(A1)、「キャンドルのかげで」(A5)、「オンリー・ワン・ウーマン」(B1)、「トゥ・ラヴ・サムバディ」(B2)、「君を求める淋しき心」(B6)が収録されている。ボネットとゴードンのオリジナルも3曲収めている。

[iv] Here At Last … Bee Gees … Live (1977).

 

[xi] しかし、レコードを引っ張り出して確認すると、解説に「イギリスでも発売されます」と書いてあった!

[xii] 楽曲提供の時点で、両グループを繋ぐ存在であった加橋もロビンもすでにグループを脱退していたのは皮肉だ。加橋がまだメンバーだったら、彼がリード・ヴォーカルを取っていたのだろうか。

[xiii] 『ヤング・ミュージック』1968年4月号、70‐74頁。「スマイル・フォー・ミー」の解説によると、国際電話による会談は、1968年2月19日と6月22日の二度行われたらしい。とすると、『ヤング・ミュージック』に掲載されたのは、2月のほうのみだったようだ。

 このなかで、ビー・ジーズがスタジオで曲作りをしていた、という、今ではよく知られた事実を、ヴィンス・メローニィ(ということになっているが、ひょっとするとギブ兄弟の誰かのまちがいだろうか)が加橋かつみに語っている。加橋が納得せずに、何度も聞き返しているのが面白い。

[xiv] 作曲はギブ三兄弟だが、バリーとモーリスのみかもしれない。The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.695.

[xv] 007映画の『ロシアより愛をこめて』の主題歌などで知られる。

[xvi] 『ミュージック・ライフ』1972年5月号、102頁。

[xvii] しかし、Bee Gees: All the Top 40 Hitsに掲載されていないのはなぜだろうか。「メロディ・フェア」は載っているのに。

[xviii] ちなみに、「スマイル・フォー・ミー」の前のタイガースのシングル「嘆き」のB面に収められている「はだしで」という曲は、リズム・アンド・ブルース色の強い、彼らにとっては異色の作品だが、イントロが「トゥ・ラヴ・サムバディ」にそっくりなのは、次にビー・ジーズの楽曲をレコーディングすることの伏線だったのだろうか。

Bee Gees 1969(3)

12 「思い出を胸に」(1969.8)

1 「思い出を胸に」(Don‘t Forget to Remember)

 “Forget”と”Remember”という反意語をタイトルに織り込んだのは面白い。「覚えていることを忘れないで」、とは回りくどいが、十代の頃からいやというほど曲を書いてきたせいか、彼らはときどき歌詞やタイトルで遊ぶことがある。愛犬の誕生日の5月1日をタイトルにしたり(“First of May”)、後の「マイ・ワールド」の歌詞など。”World”のB面が”Sir Geoffrey Saved the World”というのも、人を食っている。

 ムーディなイントロから、カントリー・タッチのスロー・バラードが始まる。60年代というより、50年代のポップ・シンガーが歌いそうな曲だ。はっきり言えば、古臭い。前作はこれまでにないロック調の曲だったが、今回はこれまでにないほど地味な曲調だ。

 しかし、アメリカでは案の定惨敗だった(73位)ものの、イギリスではなんと2位まで上昇する大ヒットになった。6月にリリースされたロビンの「救いの鐘」がやはり2位になっているが、相乗効果をもたらしたのだろうか(まさに「救いの鐘」だったのか)。ドイツでも仲良く両曲ともトップ・テンに入っている(「救いの鐘」が5位で「思い出を胸に」が9位)[i]

 今振り返ってみれば、どちらの曲も60年代が終わろうという時代には不似合いなバラードだったが、「救いの鐘」がロビンらしいストイックな孤独感を漂わせていたのに対し、「思い出を胸に」は、バリーらしい甘くノスタルジックな感傷的バラードに仕上がっている。淀みなく流れるメロディ・ラインもそれなりに完成度の高さを感じさせる。

 それにしても、2年後に発表された「傷心の日々」は同じスロー・バラードながら、イギリスではさっぱりだったのに、アメリカではナンバー・ワンになった。この差はどこに原因があったのだろうか(恐らく、後者がバート・バカラック調だったからだろうが)。

 

2 「ザ・ロード」(The Lord)㉑

 スワンプ・ロックというのか、泥臭いカントリー・フォーク調のナンバー。ヴォーカルやベースなどにモーリスの持ち味が出ているが、バリーにも「日曜日のドライブ」のように、「土臭い」カントリーへの嗜好があるので、こういった曲をやるのはそれほど意外ではない。しかし、ここまで田舎臭いカントリーはめずらしく、最初聞いたときには、「こういう曲が聞きたいんじゃないのだがなあ」、と思ったのを覚えている。

 「泥臭い」、「土臭い」、「田舎臭い」と悪口を並べたが、駄作というわけではなく、軽快でノリのよいサウンドは快調である。当時の日本でも、あるレコード評で(B面であるにもかかわらず)案外好意的だったように記憶している。

  

ロビン・ギブ「ミリオン・イヤーズ」(1969.11)

1 「ミリオン・イヤーズ」(One Million Years)

 ロビンの第二弾シングルは「救いの鐘」の続編ともいえるバラードだった。むしろ「救いの鐘」以上にオーソドックスかつ堂々たるバラードとも言えるだろう。

 「救いの鐘」よりもセンチメンタルで、ロビンのヴォーカルも感情を込めた力作感が強い。しかしあまりにもスローすぎて、前作のような緩やかなリズムも感じさせず、あまりヒットは望めそうもないという印象だが、実際、その通りとなった。

 

2 「ウィークエンド」(Weekend)

 こちらもB面はA面と対照的で、親しみやすく、軽いタッチのポップ・バラ―ド。それ以外に、あまり言うことはない。

  

 60年代のビー・ジーズは3年間で10枚のシングル(イギリス、「スピックス・アンド・スペックス」を除く)、4枚のオリジナル・アルバムを発表して、曲数は66曲に及ぶ。このほか、ロビン・ギブが「救いの鐘」、「ミリオン・イヤーズ」をリリースし、またマーブルズの「オンリー・ワン・ウーマン」以下の楽曲提供を行っている。

 1967-1968年の彼らは創作意欲にあふれ、多作だったが、69年は、ヴィンス・メローニィが抜けた後、さらにバリーとロビンの不和とその後のロビンの脱退がグループの存続を危うくし、活動量も低下した。同年後半には、『ベスト・オヴ・ビー・ジーズ(Best of Bee Gees)』が発売され、英米ともセールスは好調で、(英国とヨーロッパだけだが)シングルもロビンとビー・ジーズ双方がヒットを放った。ロビンのソロ活動もビー・ジーズも一見順調なように見えたが、この一連の騒動は徐々にダメージを与えていく。

 そして1969年末には、ついにモーリスとの関係もおかしくなり、バリーがビー・ジーズからの脱退を宣言し、ここにビー・ジーズは完全に消滅することになった。当時のイギリスでは、マザー・グースに引っ掛けて、「五人の小さなビー・ジーズがおりました。でも仰天するようなことがたくさん起こります/ひとりがグループを作ろうと出ていきました。それで四人になりました/四人の小さなビー・ジーズが残りました。でも、仲はよくありません/ひとりがソロになりました。それで三人になりました/三人の小さなビー・ジーズが残りました。どうしたらいいのかわかりません/ドラムはいらないと決めました。それで二人になりました/二人の小さなビー・ジーズは楽しくないと感じました/ひとりは何もかも嫌になりました。それで一人が残りました」、という風刺詩がどこかの音楽誌に載ったという[ii]。あまりに面白いので、全部訳してしまったが、まさかアガサ・クリスティも自分の小説を地で行く現実を予想してはいなかっただろう。後年、ジェネシスが『そして三人が残った(And Then There Were Three…)』(1978年)をリリースしたのは、ビー・ジーズの前例を教訓にしたかったからなのか。いずれにせよ、来るべき70年代の幕開けは、暗黒時代の始まりでもあった。

 

[i] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.705.

[ii] Ibid., p.248.

Bee Gees 1969(2)

11 「トゥモロウ・トゥモロウ」(1969.5)

1 「トゥモロウ・トゥモロウ」(Tomorrow, Tomorrow)

 ロビンの脱退から、わずか2か月後に発売されたイギリスで9枚目のシングル。3月にはすでにレコーディングされていたらしい[i]

 もともとジョー・コッカーのために書かれたというから、びっくりする。ビー・ジーズジョー・コッカー!?結局コッカーがこの曲を受け取らず(それはそうだろう)、スティグウッドがバリーに自分たちで録音するよう勧めた、という。この提案にバリーは、コッカーを念頭に書いたもので、ビー・ジーズのスタイルに合わない、として難色を示したらしい[ii]。なるほどとも思うが、かといってジョー・コッカーにぴったりとも思えない。

 しかし、出来栄えはそう悪くもなく、曲自体も今までにない新しさがあり、それがビー・ジーズらしくないかどうかは一概に言えない。出だしは確かにロック風、というよりフォーク・ロック風で、ホーンも入って賑やかなアレンジ。ギター・ソロでも入れば、よりロックらしくなっただろう。しかしコーラスになると、一転スローなワルツになり、ピアノの伴奏にシンフォニックなオーケストラが加わり、クラシカル・ポップになってしまう。ジョー・コッカーがこのアレンジで歌ったらどうなったのか、興味深いところだが、このアップ・テンポからバラードへのダイナミックな展開は、これまでになかった試みで、シングルで4分を越えるというのも初めてのことだった。

 残念ながら、全米チャートでは54位と、「ジャンボ」以来の不振だった。全英でも23位にとどまった。かろうじてドイツでは6位と、ドイツのファンは忠実だった[iii]

 思うに、シングル・ヒットするには構成が複雑すぎ、アップ・テンポからバラードへの変化も唐突すぎた。またアレンジが派手な割に全体のインパクトは強くない。もっとタイトなサウンドを目指すべきだったかもしれず、急いでレコーディングしたのだとすれば、それが災いしたのかもしれない。

 

2 「サン・イン・マイ・モーニング」(Sun in My Morning)

 こちらもくすんだようなフォーク・ソング。ドラムはなし。ベースとアコースティック・ギターのみをバックに、バリーとモーリスがデュエットする。まるでサイモンとガーファンクルの線を狙ったかのようだが、洗練度が段違いである。

 それでも曲は彼ららしく美しい。ひなびたオルガンや枯れたストリングスの響きも抒情をかきたてる。モーリスは、温かみがある、と強調している[iv]が、確かにほのぼのとした柔らかなサウンドとハーモニーは捨てがたい。しかし野暮ったさは拭えない。

 

 

ロビン・ギブ「救いの鐘」(1969.6)

1 「救いの鐘」(Saved by the Bell)

 ロビン・ギブの初のソロ・シングルは1969年6月にリリースされた。

 3月にロンドンのいつもと異なるド・レーン・リー・スタジオで録音されたという。モーリスがベースとピアノで参加したほかは、ロビンがギター、オルガンのほかにドラム・マシーンを使ってレコーディングしたというから、まさにソロ・レコーディングに近い。テープはこれもビー・ジーズ時代と異なり、ビル・シェパードではなく、ケニー・クレイトンというアレンジャーに送られ、オーケストラが加えられた[v]。モーリスの参加にバリーはお怒りだったらしい[vi]

 荘重なオーケストラに導かれ、ロビンがゆったりとしたリズムに合わせて霧の中から聞こえてくるかのような繊細なヴォーカルを聞かせる。四分音符と二分音符を基礎に音数を抑えた彼らしいシンプルなメロディは、まさにロビン・ギブのバラードの極致ともいうべき作品に仕上がっている。これまでの代表作である「そして太陽は輝く」や「ランプの明かり」に比べても、純度100パーセントのロビン・ギブ・ミュージックで、まったく雑味を感じさせない(バリーやモーリスが雑味というわけではない)。讃美歌のような曲想も予想に反せぬロビン・ギブ調で、バラードといっても、聞き手を切ない思いにさせるというよりも、そうしたセンチメンタリズムを排した、ある種硬質なバラードである。よく言えば「孤高の美」だが、リスナーを寄せ付けないような壁を感じさせないでもない。

 ロビン・ギブの一つの到達点ではあるが、ここからどこへ向かうかというと、その後のロビンの活動を見ても、難しい地点に立ったと言わざるを得ない。

 

2 「マザー・アンド・ジャック」(Mother and Jack)

 Aサイドとは打って変わって、軽快なリズムでロビンがリラックスした歌声を聞かせる。

 彼らしい風刺的な歌詞は童謡のようでもあり、辛辣なようでもある。どこかラテン風なサウンドは明るい雰囲気で、のびのびとしたヴォーカルも心地よい。しかし強い個性があるわけではなく、聞き流されそうではある。やや長すぎて間延びするのも気になる。

 しかし、後述のアルバム『救いの鐘』のなかで聞くと、意外なアクセントになっている。スローな曲ばかりで、アップ・テンポの曲がひとつもないせいでもあるが、B面ながらアルバムに収録された意味がわかる。

 

[i] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).

[ii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.224.

[iii] Ibid., p.705.

[iv] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 .

[v] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1969.

[vi] Cf. The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.223.

Bee Gees 1969(1)

10 「若葉のころ」(1969.2)

1 「若葉のころ」(First of May)①

 このシングルの日本盤ジャケットは、ヨーロッパ中世の宮廷画のようなイラストに、バックは空の青。一見したところでは、ポップ・ロック・グループのレコードとは思えないような優雅なデザインだった。B面の「ランプの明かり」もバロック・ポップだったから、クラシカルな本作とのカプリングによるレコードには合っていたが。

 「若葉のころ」/「ランプの明かり」は、アルバム『オデッサ』からの先行シングルだが、ジョゼフ・ブレナンによると、イギリスでの本作の発売は69年1月、アルバムは3月。しかし、アメリカではアルバム(ステレオ)が1月、シングルが3月リリースだという[i]。これが正しければ、アメリカではアルバムからのシングル・カットということになる。

 また本作は「獄中の手紙」以後の初のシングルだった(アメリカでは「ジョーク」が『アイディア』からシングル・カットされた)。1967-68年の英米での最初の1年がシングル6枚という大量リリースだったのとは、非常に対照的だ。1年目はシングル中心、1968-69年はアルバム中心に移ったといってもよいかもしれない。実際、『オデッサ』は初の二枚組だった。

 壮麗なオーケストラの演奏から始まるバラードで、ピアノをバックにバリーが落ち着いた声で「僕が小さかった頃、クリスマス・ツリーは大きく見えた」、と歌い始める。この曲もまたワン・フレーズを発展させただけのシンプルな作品だが、サビの高音部分のバリーの切なげな声が叙情を深める。2番に入ると、オーケストラが一気にかぶさって、ドラムとベースが加わり、「二人とともに育ったリンゴの木から、リンゴの実がひとつ、またひとつと落ちていく」という歌詞が、さらに感傷を誘う。最後は再び冒頭の歌詞に戻り、楽器の音が消えた後、バリーの声だけが遠ざかり、かすかに聞こえて終わる。けれん味のない、しかし詩情にあふれた作品となっている。

 ところで、「ぼくらは恋していた。みなは遊んでいたけれど」のメロディ進行は、ビートルズの「レット・イット・ビー」にどことなく似ている。「レット・イット・ビー」は1970年1月の発売だが、周知のとおり、すでに1969年1月の『ゲット・バック』セッションでレコーディングされている。わずかな相似とはいえ、ちょうど同じ頃というのが面白い。

 もう一つ付け加えると、最後の「でも、五月一日がやってきて、涙を流すのはどちらなのだろう」の展開は不自然ではないだろうか。初めて聞いた時から思っていたことだが、トップから一気に音を下げて、強引に締めくくったかのように聞こえる。悪く言えば、素人が曲のまとめ方がわからず、無理やり終わらせたかのように感じられないでもない。そもそも曲全体が、やたらと音が激しく上下して、歌いづらそうだ。既に述べたことだが、この辺のアマチュアっぽさもまた彼ららしいとはいえる。きちんと音楽的修練を経て、作曲技法を学んだ人たちからすれば、彼らのような譜面も読めない素人の集まりが書いた曲が世界中で何千万枚も売れたのは納得いかないことかもしれないが。

 

2 「ランプの明かり」(Lamplight)②

 「若葉のころ」/「ランプの明かり」のシングルは、古参のファンにとっては、もっとも複雑な思いのあるレコードだろう。このレコードがグループの崩壊を導く原因となったことは、ファンなら誰もが知る話だからだ。

 そもそもは『オデッサ』からのシングル候補は表題曲だった、という。ロバート・スティグウッドは、「オデッサ」を史上最高のポップ・ソングだと激賞し、ロビンにそれを伝えた。「オデッサ」はビー・ジーズの楽曲中、最長の7分30秒の大作だったので、AB面に分割してシングル盤に収録する案も出たが、演奏時間の長いシングルは、すでにリチャード・ハリスの「マッカーサー・パーク(McArthur Park)」(1968年、後にドナ・サマーのヴァージョンが全米1位となった[ii]ジミー・ウェッブの作品)、そして何よりビートルズの「ヘイ・ジュード」が発表されていたので、結局シングル・カットは見送られた。

 次に候補となったのが、バリー主体の「若葉のころ」とロビンのヴォーカルの「ランプの明かり」だったが、最終的にスティグウッドが前者をAサイドとすることを決めた、という[iii]

 この結果に不満だったロビンは、ついに1969年3月19日にソロ活動を宣言[iv]ビー・ジーズとしての5年間の活動の契約破棄が問題となり、訴訟に至る。その後、1970年までにグループは事実上、消滅という結末を迎える。

 バリーとロビンの確執と対立は、ビー・ジーズの歴史を彩る(ありがたくない)縦糸のようなものだが、振り返ってみると、すでに「恋するシンガー」と「ジャンボ」のAB面入れ替え事件の頃から、ロビンの不満はくすぶり始めていたのだろう。バリーは、ビー・ジーズというグループを解き明かすキーワードは「エゴ」だといったそうだが[v]、この言葉には当事者の実感があふれている。

 とはいえ、「若葉のころ」と「ランプの明かり」のカプリングは、ビー・ジーズの全シングル中のベストというのが筆者の意見である。デビュー・シングルの「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」/「誰も見えない」のカプリングも捨てがたいが、「若葉のころ」/「ランプの明かり」はそれ以上だと思う。「若葉のころ」は全米では37位に終わったが、イギリスでは6位にランクされた。またドイツでは3位まで上昇したが、「ランプの明かり」のほうがAサイドだったらしい[vi]。だとすれば、どちらの曲も国は異なれど、人気を博したということだろう。

 チャート成績を別にしても、「若葉のころ」と「ランプの明かり」はどちらもこの時期のビー・ジーズを代表する楽曲である。冒頭、モーリスの12弦ギターが切迫した感情を表わし、この後の劇的な展開を予感させる。まるで聖歌隊のようなコーラスが「ああ、戻ってきておくれ、愛しい君」とフランス語の歌詞を歌うと、ロビンがそれを受けて「もうおしまいかもしれない。彼女は買いたいものがあるという。僕は眼を閉じる。なぜだかわからないけれど」、と失いかけた恋を歌う。それに続くコーラス、「ランプの灯は燃え続ける。僕の心が求め続けるかぎり」のハーモニーも切ない。エンディングでは、冒頭のパートを、今度は英語で「カム・ホーム・アゲイン・ディア」と歌うと、4小節の短いメロディを挟んで、最後はスキャットによるコーラスがギターとともに次第に遠ざかり、曲は終わる。

「ランプの明かり」を構成するメロディの数々はどれも甘美で芳醇だが、とりわけ最後に繰り返される「アイ・ハヴ・ウェイテッド・イヤー・アフター・イヤー」の旋律は聴き手を陶酔へと誘い込む力をもっている。

 あまりに大げさな、という批評もあるだろうが、ビー・ジーズバロック・ポップの決定版といえる。

 

〔4〕『オデッサ』(Odessa, 1969.3)

 真っ赤なビロードを張った真ん中に金文字でBEE GEES、そしてODESSAとだけ印されたジャケット。メンバーの写真も、その他のイラストも一切なく、裏面も赤一色。『オデッサ』は、どこからどこまでも『ザ・ビートルズ』、通称『ホワイト・アルバム』を意識した仕様になっている。

 『ホワイト・アルバム』の発売は1968年11月。『オデッサ』は1969年3月、いやアメリカでは先行して1月にリリースされたというから、普通なら、「影響を受けて」つくる時間的余裕はないはずだが、そこはそれ、スティグウッドがもともとNEMSで働いていたことから、情報は伝わっていたらしい。スティグウッドの指示で、ビー・ジーズもダブル・アルバムを制作することになった(もっともバリーの証言によると、二枚組になったのは経済的な理由、すなわち利益が見込めるからだったという)[vii]

 しかし自発的な意志によるものではなかったとしても、『オデッサ』はビー・ジーズにとって、極めて実験的かつ挑戦的な作品となった。端的にいえば、シングル・アルバムだったらやらなかったような曲が入っているということで、それが例えば7分を超える表題作であり、3曲のインストルメンタル・ナンバーである。

 とはいっても、全17曲で60数分というのは、確かに前作の『アイディア』の倍近い収録時間ではあるが、現在なら1枚のCDに収まる程度に過ぎない(実際そうなっている)。全30曲で90分を越えるモンスター級ヴォリュームの『ホワイト・アルバム』に比べると、無理して二枚組にしました感がありありと見える。もっとも、『ホワイト・アルバム』以後、大流行となるダブル・アルバムのうちでも傑作とされるエルトン・ジョンの『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』(1973年)や、エレクトリック・ライト・オーケストラの『アウト・オヴ・ザ・ブルー』(1977年)なども全17曲で、この全17曲という構成は二枚組の標準的な曲数なのかもしれない。

 このように、『オデッサ』は『ホワイト・アルバム』後のダブル・アルバム・ブームの先陣を切った作品である。周知のとおり、『ホワイト・アルバム』以前にも、ボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』(1966年)やフランク・ザッパの『フリーク・アウト』(1966年)などがあるが、ダブル・アルバムの流行を招来するには至らなかった。『ホワイト・アルバム』のフォロワーズでは『オデッサ』が最短記録だろう(近いところで、シカゴの『シカゴ・トランジット・オーソリティ』が1969年4月に出ている)。フライング気味ではあるが。

 その後、ピンク・フロイドの『ウマグマ』(1969年)、ローリング・ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』(1972年)、前述のエルトン・ジョン、そしてスティーヴィー・ワンダーの『ソングズ・イン・ザ・キー・オヴ・ライフ』(1976年)などの名盤が生まれ、さらにはイエスの『海洋地形学の物語』(1973年)のようなトリプル・アルバムまで出現した。

 話を戻すと、『オデッサ』のレコーディングは、1968年8月のアメリカ・ツァー中に始まり、数曲を録音した後、イギリスに戻って、10月から12月にかけて、いつものIBCスタジオを中心に作業が進められた。

 しかし、11月にヴィンス・メローニィが脱退したことから、メローニィのギターを削除するなどの措置が取られたらしい。といっても、メローニィの脱退は、新作のレコーディングに支障をきたすものではなく、コリン・ピーターセンを含む4人によって録音が続けられ、アルバムは完成した。

 この事実は、ビー・ジーズがロック・バンドではないことを、はからずも実証することになった。リード・ギタリストが抜けた後、その後釜を補充せずに活動を続けるロック・バンドがあるだろうか。結局、ギブ兄弟こそがビー・ジーズにほかならないので、その後ピーターセンが切られたように、『オデッサ』はその事実を改めて確認させるものだった。

 

A1 「オデッサ」(Odessa)③

 嵐をイメージしたサウンド・エフェクトで始まり、風が吹きすさぶなかでモーリスのギターが哀愁を帯びたメロディを弾くと、バリーの語りのような、呪文のような声が「1899年2月14日、イギリス船ヴェロニカ号は何の痕跡も残さず、消息を絶った」、と告げる。続けてロビンが「バー・バー・ブラック・シープ、ユー・ハヴント・エニ・ウル」とマザー・グースをもじったあと、「リチャードソン船長は、ハル港に一人妻を残し、消えた」、と物語るように歌い継いでいく。

 「オデッサ」は、「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」同様、架空の海難事故と船長の運命をテーマとした叙事詩で、なぜかバルティック海の海難事故と黒海の海港都市オデッサが結びつけられる。最初のヴァースはゆったりしたテンポでロビンがトラディショナル・フォーク風のメロディを歌うが、一転、サビでは教会音楽を思わせる「オデッサ、私の強さはどれほどのものか。オデッサ、かくも時は早く過ぎ去るものか」の壮大なコーラスが響き渡る。2番のヴァースはテンポが速まり、ロビンのヴォーカルの背後からわき上がるオーケストラが広々とした大洋を思わせ、どこか明るく、不思議な高揚感を漂わせる。そして再び轟き渡るコーラスをバックに、ロビンがオペラのような歌唱[viii]でサビを繰り返す。エンディングはモーリスのギターが冒頭と同じフレーズを繰り返し、重々しい沈鬱なスキャット・コーラスを挟んで、再び「1899年・・・」のメロディが楽器の音が途絶えた静寂のなかに響くと、「オデッサ」は終わる。

 サウンドの中心は、モーリスのギターとビル・シェパードのオーケストラ、そしてポール・バックマスターのチェロ[ix]である。弾き語りのような印象を与えるのは、ドラムスが使われていないせいだろうか。2009年に出された、オリジナル・アナログ盤を忠実に再現した『オデッサ[x]には、ボーナス・トラックとして、収録曲の多くの別ヴァージョンが収められているが、そのなかの「オデッサ」のファースト・テイクを聞くと、未完成という以前のひどい出来で、よくまあ、ここからファイナル・ヴァージョンにもっていけた、と感心する。完成形の「オデッサ」も完璧とはいえないが、曲自体の素晴らしさと、そして何よりデビューから2年でこれだけの作品を作り上げたことに素直に感動する。

 

A2 「私を見ないで」(You’ll Never See My Face Again)④

 大作の「オデッサ」に続く、バリーのヴォーカルによる「私を見ないで」はずっとリラックスした雰囲気のシンプルなフォーク・バラードだが、それでも4分を越える。これまで4分越えの曲はビー・ジーズにはなかったが、『オデッサ』は二枚組ということもあって、6曲もの大盤振る舞いだ。無理やりコーラス・パートを増やして引き伸ばしたような作品も目立ち、苦心のほどが忍ばれる。「私を見ないで」もトゥー・コーラスでよさそうな曲だが、スリー・コーラスまである。しかし、それほど長すぎるという感じはしない。メロディはあまり特徴がないように聞こえるが、繰り返し聞くうちに耳に馴染んでくるよさがある。とくにモーリスのハーモニーが加わるコーラスの「君は自分が一人でやっていけると思っている。笑っちゃうよ。君には友達の一人もいないじゃないか」、というあたりのメロディは耳馴染みがよい。歌詞は相当怖いが。「私を見ないで」ではなく、「君の顔は見たくない」ではないか。

 この曲もバリーとモーリスのギターにオーケストラがかぶさるアレンジで、ドラムは聞こえない。『ホワイト・アルバム』も最初の2曲(「バック・イン・ザ・USSR」と「ディア・プルーデンス」)は、リンゴ・スターがドラムを叩いていないが、一体何の暗合だろうか。果たして、ピーターセンはどう思っていたのだろうか。

 

A3 「黒いダイヤ」(Black Diamond)⑤

 黒いダイヤといっても石炭のことではなさそうだ。「オデッサ」、「ランプの明かり」とともに、本アルバムでのロビン・ギブ三部作とでも呼べる3曲目である。『オデッサ』の制作中は、バリーとロビンの不仲が頂点に達していたらしく、バリーはバリーで色々な不満があったことを回想のなかで述べているが、実際、ロビンはこの3作に創作力を集中させていたらしい[xi]

 ギターをバックに「きみはどこに。愛しているのに」とロビンがイントロ代わりの、しかし美しいメロディを歌うと、ピーターセンのドラムスが入ってくる。最初の2曲がドラム抜きだったので、満を持してというか、急にサウンドが締まった印象を与える。

 メインのパートは、4小節のヴァースを繰り返した後、4小節のセカンド・ヴァースを繰り返し、さらに4小節のブリッジを挟んでサビのコーラスへと続いていく。この時期の彼らの曲のなかではかなり複雑な構成だ。さらにメイン・パートが終わると、「ハ・ハ・ハ・ハ・ハ」の2小節の繋ぎから、最後の「セイ・グッドバイ・トゥ・オールド・ラング・ザイン」の力強いリフレインへと移る。クラシカルだが、これまでにない一風変わった旋律だ。

 このように、メインのパートの前後に追加のパートが付け加わっているのが、ロビン主導の3曲に共通する特徴で、彼の力の入れ具合もわかる。3曲とも『オデッサ』を代表する楽曲と言えるだろう。ロビンの3曲にインストルメンタルの3曲。これらが『オデッサ』のバロック・ポップ・アルバムとしての印象を決定づけている。

 

B1 「日曜日のドライブ」(Marley Purt Drive)⑥

 『オデッサ』のアメリカでのセッションは、リマスター盤解説によると、8月13日から20日までニュー・ヨークのアトランティック・レコーディング・スタジオで行われたらしい。アメリカ録音で、しかも現地ミュージシャンを起用したこともあってか、カントリー風の曲が目立つ。そのうちのひとつがこの曲で、外部ミュージシャンがバンジョーとスティール・ギターを弾いている[xii]。『オデッサ』は、ロビンのヴォーカル曲のようなバロック・ポップ・アルバムの性格と、アメリカでのセッションに見られるようなフォーク・カントリー・アルバムとしての特徴を併せ持っている。というより、アルバムとしてテーマが分裂している。よくいえば多彩であるともいえる。

 この曲について言えば、バンジョーやスティール・ギターが使われ、ドラムの音が強調されているなど、バンド志向が強まっているようにも感じられる。しゃれではないが、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968年)からの影響が指摘され、どっしりと粘りつくようなサウンドが特徴だ。

 曲は、例によってバリーがさっと書いたと思しき10小節の繰り返しで、彼の、カントリーというより、むしろソウル・ミュージック風のヴォーカルで聞かせていく。

 曲本体とは対照的な、ラストの繊細なコーラスとストリングスも印象的。

 

B2 「エディソン」(Edison)⑦

 アメリカでのセッションが始まった時、次のアルバムは『マスターピース(Masterpeace)』または『アメリカン・オペラ(The American Opera)』というタイトルのコンセプト・アルバムとして構想されたというが、結局ロビンとバリーの対立などにより、当初の計画は立ち消えとなり、タイトルも『オデッサ』に変わった[xiii]。しかし、最初のコンセプトは、様々な立場や境遇の人々をテーマにした人間模様だった、ともいい、それを裏付けるように、「オデッサ」ではリチャードソン船長、「日曜日のドライブ」では孤児を引き取って養育する夫婦がテーマになっている。そしてこの曲では、「エディソン」すなわち発明王エジソンというわけである。

 そこで「彼は電気の光をつくって、本を読めるようにしてくれた。彼は明かりを与えてくれたんだ」、という歌詞が歌われる。3拍子と4拍子を組み合わせた「明るい」曲調は、歌詞の内容に合わせたのだろうか。電子ピアノの音色もそうした演出のうちらしい。

 もともとはBarbara Came to Stay (バーバラは兄弟の母親の名前)というタイトルだったらしく、初期ヴァージョンがリマスター盤[xiv]に収録されている。そちらはもう少しラフな歌い方でロックっぽさが目立ち、どことなく『サージェント・ペッパーズ』を思わせる。

 

B3 「メロディ・フェア」(Melody Fair)⑧

 日本ではおなじみの曲。1971年に映画『小さな恋のメロディ』のサウンド・トラック盤からシングル・カットされて、50万枚近いセールスを記録した。「マサチューセッツ」と同様、いやそれ以上にビー・ジーズの日本での人気を高めた。

 だからというのではないが、やはり本作は『オデッサ』のなかでも、「オデッサ」、「ランプの明かり」、「若葉のころ」と並ぶ代表作といえる。あるいはそれ以上かもしれない。くっきりとした、わかりやすい、流れるようなメロディは、クラシック、例えばグリーグの『朝』のような普遍性をもっているように思う。

 少女に「君はきれいになれるよ」、と語りかける歌詞は、フェミニズム的にどうなの、と物議を醸したようだが、ヒロインの名前を冠したタイトルを訳せば「美しいメロディ」、まさに、類まれなるメロディ・メイカーである彼らにふさわしい。バリーによれば、「エリノア・リグビー」に触発された[xv]、というが、ポール・マッカートニーほど文学的でも、シニカルでもないが、それでも、この曲の持つ愛らしさと無邪気さは他にはない独特の魅力を放っている。イントロのストリングス、コーラスでバリーに代わってリードを取るモーリスの屈託のない歌声、そしてこれもモーリスと思われる間奏とエンディングにおけるファルセットも、この曲の魅力をさらに高めている。

 多くの人の記憶に長く残る曲のひとつだろう。

 

B4 「サドンリィ」(Suddenly)⑨

 モーリスがドラムスを除くすべての楽器を演奏し、リード・ヴォーカルを取った最初の曲として知られる。考えてみると、意外な気がする。オーストラリア時代、モーリスはすでに自作の曲を何曲かレコーディングしていて、それらの曲では、当然、彼がリード・ヴォーカルを務めているが、英米デビュー後は、ここまでそのような曲はなかった。『オデッサ』でそれが実現したのも、ダブル・アルバムならではということだったのだろうか。ビートルズの『ホワイト・アルバム』も、リンゴ・スターの単独曲が初めて収録されたアルバムだったが、モーリスはスターと違って、作曲経験は豊富だった。

 作曲もモーリスの単独、あるいは少なくとも主導によるものだろうが、クレジットは3人の共作となっている。英米デビュー後のビー・ジーズの楽曲は、始めロビンとバリーの共作が中心で、何曲かにモーリスが加わるケースが多かったが、「マサチューセッツ」以降、すべて3人の共作とクレジットされるようになった。これはレノン=マッカートニーのように、ある時点からすべての楽曲を3人の共作と表記する取り決めでもしたのだろうか。それとも、実際にすべて3人の共作なのだろうか。とすると、注11で引用したバリーの証言-「ロビンが新作で書いたのは4曲だけ」-はどういうことになるのだろうか?

 それはさておき、「サドンリィ」は、確かにバリーやロビンが書く曲とは一線を画する。分類すればフォーク・ロックだろうが、ソリッドなサウンドは別のアーティストのレコードを聴いているような気になる。モーリスの声はバリーやロビンほど特徴がないが、その分サウンドに溶け込んで、もっともロック的といえる。

 「突然、雨の中に少年が立っている」、という歌詞も暗示的だが、モーリスは当時「自分には歌詞は書けない」、と言っていた。これはロビンが書いたのだろうか。また共作の話題になるが、3人の分担は、主にバリーが曲を書き、ロビンが歌詞を書いて、モーリスがアレンジを担当する、という風に言われたことがある。もちろん、3人とも単独で作詞作曲できるのだが、この曲の場合はどうだったのだろうか?

 

B5 「ウィスパー・ウィスパー」(Whisper, Whisper)⑩

 オデッサ・セッションで最初にレコーディングされたのがこの曲だった、という。場所はアメリカのアトランティック・スタジオだが、この後、「日曜日のドライブ」(8月15日)、「恋のサウンド」「ギヴ・ユア・ベスト」(8月20日)、「エディソン」が録音され、他に「若葉のころ」(8月16日)と「七つの海の交響曲」のデモ・ヴァージョンが作られた[xvi]

 そこでこの曲だが、最初に録音したにしては、随分と奇妙な曲だ。左右でオーケストラが一方は上昇し、他方は下降するイントロからして妙といえばいえるが、フェイド・インしてくるテンポもとぼけていて、バリーのヴォーカルも変というか、少々気持ち悪い。左右で鳴るピアノもそろっているかと思えば、ときに弾いたり弾かなかったりする。すると突然間奏では美しいストリングスが聞こえてきて、どうにも真面目に聞けない。

 変に凝っているのも特徴で、後半、「ウィスパー、ウィスパー」のリフレインがフェイド・アウトしていくと、急に音が切られて、新しいパートが始まる[xvii]。ドラムスの連打でスタートするのは、ピーターセンの顔を立てたドラム・ソロのつもりだろうか。最後はバリーの早口言葉(「ジャンボ」のような?)の歌詞から、管楽器のコミカルな音でおしまいとなる。

 これはコミック・ソングなのだろうか。「私はあなたの欲しいものを持っている。呼び止めて買ってください」、という歌詞は、詐欺師がテーマなのか。面白いといえば面白い、・・・だろうか?多くのアーティストのダブル・アルバムについて、曲を選別してシングル・アルバムにしたほうがよかった、という評価が下されることがままあるが、『オデッサ』の場合も例外ではない。バリー自身がそれを認めているが[xviii]、この曲など、さしずめカットの第一候補になるのではないか。

 

C1 「ランプの明かり」

C2 「恋のサウンド」(Sound of Love)⑪

 この曲もモーリスのピアノをバックに、バリーがささやくように歌い始めるが、「若葉のころ」とは異なり、次第にソウル風にシャウトし始め、サビのところでは、ピアノともどもドラマティックに盛り上げる。バリーの歌声に合わせて、ときに静かに、ときに力強く鍵盤を叩くモーリス(とドラムのピーターセン)との息のあった掛け合いが聞きものになっている。

 曲は、『アイディア』の「つばめ飛ぶ頃」を思わせるが、もっとマイナー調のメロディで、ヴァースはともかく、コーラスのフレーズが単調な繰り返しで、やや面白みに欠ける。バリーの歌いっぷりのよさでもっている曲、という感じだろうか。

 

C3 「ギヴ・ユア・ベスト」(Give Your Best)⑫

 フィドルバンジョーに外部ミュージシャンを起用して、かなりタイトな演奏を聞かせる。「日曜日のドライブ」とともに、このアルバムではバンドっぽい作品である。

 最初にバリー、モーリス、ロビンの語りが入り、かぶさるように演奏が始まるが、ロビンの声は、終盤にYeahの掛け声が入るほかは、あまり目立たない。基本的にバリーのヴォーカルで進行する。

 曲はいかにもといったカントリー・アンド・ウェスタンだが、それほどあくは強くなく、ポップ・ソング色が目立っている。そこはイギリスのグループならではということだろうか、サビのメロディもビー・ジーズらしく感傷的な美しさがある。道化師をテーマにした歌詞にふさわしいペーソスを感じさせる作品。

 後に「メロディ・フェア」、「若葉のころ」同様、『小さな恋のメロディ』で使用された。

 

C4 「七つの海の交響曲」(Seven Seas Symphony)⑬

 「サドンリィ」に続いてモーリスが主役を務める曲が登場する。彼がオーケストラをバックに最初から最後までピアノ・ソロを聞かせる[xix]。他のメンバーはレコーディングに加わっていない。しかも、テイク数はわからないが、一発取りのライヴ・レコーディングだという[xx]。モーリスにとっては、インストルメンタル・パートを一手に引き受けているという自負もあり、腕の見せ所だったのだろう。

 それにしてもこの曲の作曲はどのように行われたのだろうか。当然、アレンジにはビル・シェパードの協力が大きかっただろうが、ピアノ・ソロはモーリスが自分で考えたのだろうか。主旋律は単純で、ギブ兄弟にも十分書けそうな曲ではあるが。

 曲自体は、クラシックというより、映画音楽ないしBGM風で、タイトルからくる「大海原を進む船」というイメージをうまく表現している。穏やかな凪の海を進む船、一転して嵐が吹き荒れて、その後また静かな海へ、という演出はベタではあるが(凪だけに)、4分を越えるだけあって、3曲のインストルメンタルのなかでは最も聞きごたえがある。

 3曲ものインストルメンタルは多すぎるとも言えるが、二枚組ならではの試みでもあり、またメンバーの負担を軽減する意味でも効率的な選択だったのだろう。ギブ兄弟にしても、(モーリス以外)演奏もなし、歌わなくても済むし。

 こう言ってしまっては、身もふたもないが。

 

C5 「ウィズ・オール・ネイションズ」(With All Nations)⑭

 2曲目のインストルメンタル曲はさらに省力で、メンバーの関与はなし。2分足らずの、アルバム中最も短い曲でもある。

 最初は歌詞が付いていた、というのはリマスター盤で初めて知らされた驚くべき事実だが、インストルメンタルのみでも十分に雰囲気は伝わってくる。「すべての国民とともに」、とはえらくスケールが大きいが、勇壮あるいは荘厳な曲調で、わずか8小節を3度繰り返すだけの単純な構成だが、前曲以上にバロック調のメロディが印象的だ。

 ロビンなら書きそうな曲想だが、これがバリーの言う「ロビンが書いた4曲」[xxi]のひとつなのだろうか。

 

D1 「アイ・ラフ・イン・ユア・フェイス」(I Laugh in Your Face)⑮

 1968年7月に録音された。本アルバムではもっとも早いが、実際は、前作『アイディア』のアウトテイクで、「獄中の手紙」のBサイドの予定だったのではないか、ともいう[xxii]

 4分を越える曲だが、もし『アイディア』に収録されていたとしたら、もっと短くカットされていたのだろうか。最後のコーラスの途中でフェイド・アウトするとか。

 曲はメランコリックなマイナー調だが、タイトにまとまっていて、あまり長さを感じさせない。彼らの最上のメロディとはいえないが、サビの3人のコーラスは厚みと広がりで聴き手を圧倒する。考えてみれば、『オデッサ』はコーラスがあまりなく、その意味では、アウトテイクであっても、『アイディア』の頃の息の合ったコーラスが聞けるのは、ファンにとってはうれしい。『アイディア』の頃、といっても、『オデッサ』とそれほどレコーディング時期が離れているわけではないのだが。

 しつこいようだが、『アイディア』のアウトテイクということは、これが「ロビンが書いた4曲」のひとつなのだろうか。

 

D2 「ネヴァー・セイ」(Never Say Never Again)⑯

 何の変哲もないポップ・ソング。69年の日本盤解説にも、「もう少し手を加えて欲しかった」、という評言が載っている[xxiii]が、それも無理はない。曲もアレンジもシンプルで単調なのだ。3分ちょっとの曲だが、3番まであるのは長すぎる気がしたものだ。二枚組だから、一曲一曲を引き伸ばしているな、とも感じた。

 2009年のリマスター盤を聞くと、メローニィのけたたましいファズ・ギターがフューチュアされていて驚かされる[xxiv]。サイキデリックの残り香というか、ミスマッチというより、いささかクレージーなアレンジだ。

 そうはいっても、近年の評判は意外によく、シングル候補になりえた、との意見もある[xxv]。確かにキャッチーなメロディで、バリーとモーリスのサビのハーモニーも耳に心地よい。

 もうひとつ取りざたされてきたのは歌詞の一節、「もう会わないなんて言わないで。君がさよならを告げるなら、僕はスペインに宣戦布告する」。バリーが「馬鹿げている。ロマンティックじゃない」、と言ったのに対し、ロビンが「何かと戦おうとすることくらい、恋する男にふさわしいものはないだろう」、と答えたという話[xxvi]。なるほど、ロビンの言うことはもっともだ。いや、そうでもないか。エリザベス1世時代のスペイン無敵艦隊との戦争に引っ掛けているのは明らかで、歴史好きだというロビンらしい発想といえる。

 (何度もいうが)以上の逸話を考慮すると、これが「ロビンが書いた4曲」のひとつだろうか。4曲どころか、ずいぶんたくさん書いているようだが。

 

D3 「若葉のころ」 

D4 「ブリティッシュ・オペラ」(The British Opera)⑰

 アルバムの最後を飾るのは、3曲目のインストルメンタル・ナンバー。前2曲と比べても、最もギブ兄弟の関与が薄い。ほとんどビル・シェパードの作品といってもよさそうである。メインとなる旋律は「ランプの明かり」などと共通するバロック風で、オルガンの弾くメロディもビー・ジーズっぽい、というより、プロっぽくないように聞こえるが、どこまでがギブ兄弟の作曲で、どこからがシェパードのアレンジなのだろうか。

 そう思わせるのは、「七つの海の交響曲」以上に、凝った音楽的演出がされているからでもある。角笛を模したホーンが鳴ったり、何かが忍び寄るような弦楽器の響き。タイトル通り、ロビン・フッドでも登場しそうなヴィジュアルなイメージを喚起する。

 その曲名、「ブリティッシュ・オペラ」は、『オデッサ』の仮タイトルだったThe American Opera と明らかに関連していると思えるが、どちらが先だったのだろう。最後の曲がインストルメンタルというのは、物足りないとも、手抜きとも映るが、1曲目の表題曲と同じクラシカル・ポップで締めくくったのは、アルバムの最初と最後を同系統の作品でまとめるという、これまでのやり方に倣ったものだ。そういう意味では、ラストはこの曲しかなかったのだろう。

 

[i] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1969.

[ii] 1978年11月11日~25日。

[iii] Melinda Bilyeu, Hector Cook and Andrew Môn Hughes, The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb (New edition, Omnibus Press, 2001), pp.208-209.

[iv] Ibid., p.216.

[v] Idea (2006), p.3.

[vi] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, Appendix III, p.689: Appendix VI, p.705.

[vii] Ibid., p.210; Bee Gees; Day-By-Day Story, 1945-1972, p.80. 後者で紹介されているバリーのインタヴュー記事では、ビートルズの真似であることをむきになって否定しているのが面白い。バリーによると、クリームと同じ時期に計画されたのだ、という。クリームの二枚組というと、『ホィールズ・オヴ・ファイア(クリームの素晴らしき世界)』(1968年)のことだろう。

[viii] Ibid., p.208.

[ix] Ibid.

[x] Odessa (2009). このリマスター盤には、オリジナル盤に封入されていたステッカーなども再現されているが、日本盤にはこのようなものは付いていなかった。

[xi] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.216. バリーは、『オデッサ』でロビンが書いた曲は4曲だけだと主張しているが、そうだとすると、残る1曲はどれだろうか。

[xii] Odessa (2009).

[xiii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.209.

[xiv] Odessa (2009).

[xv] Ibid., p.212.

[xvi] Odessa (2009). 1968年8月13日。『アイディア』のアウトテイクだった「アイ・ラフ・イン・ユア・フェイス」を除く。

[xvii] 2009年のリマスター盤には、後者のパートが独立して収められている。

[xviii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.210.

[xix] Ibid., p.212

[xx] Odessa (2009).

[xxi] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.216.

[xxii] Ibid.

[xxiii] 八木 誠氏による解説。

[xxiv] Ibid.

[xxv] Ibid.

[xxvi] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.212.

Bee Gees 1968(4)

〔3〕『アイディア』(Idea, 1968.8)

 『ホリゾンタル』から半年という早いペースで3枚目のアルバムがリリースされた。この時期は曲のタイトルもそうだが、アルバムも単語ひとつのタイトルが、次の『オデッサ』まで続く。全12曲、前述のように、後にシングル・カットされる「ジョーク」を除き、シングルA面を収録せずに構成されている。

 アルバム・ジャケットもちょっと変わっていて、日本盤でも使われたアメリカ盤ジャケットは、再びクラウス・ヴォアマンを起用し、5人のメンバーの顔の一部ずつをコラージュして一人の顔にするという、少々不気味なデザインだった。もっとも、出来上がった顔は明らかにバリー・ギブだったが・・・[i]。一方、イギリス原盤は、青いバックに電球の写真というシンプルなもの。底部のねじの上の箇所にメンバーの写真が小さくはめこまれている。明らかに、タイトルに引っ掛けた「アイディア」(ひらめいた!というわけだ)だった。日本では、再発売の際に、こちらのジャケットが使用された。

 アルバムのテーマは「ロマンティック」とでも言えようか。ラヴ・ソングの「愛があるなら」と「白鳥の歌」を最初と最後に置いて、対照させている。どちらもバリーを中心とした楽曲だが、ストリングスを強調したドラマティックな仕上がりで、「恋するシンガー」の路線を発展させたとも受け取れる。収録曲もメロディアスな曲が中心なのはいつものことだが、これまで以上にメロディを強調した楽曲が収められている。その意味で、過去3枚のなかでももっともビー・ジーズらしいアルバムといえるだろう。あるいはビー・ジーズの魅力の本質を示したアルバムともいえる。そのせいもあってか、全英ではこれまでで最高の4位にランクされた。一方全米では17位と順位を落としている。『ファースト』と『ホリゾンタル』が方向性は異なるが、いずれもロック的な指向を持っていたのに対し、『アイディア』はポップ色が強まったことで、アメリカのロック・ファンを遠ざける結果になったのかもしれない。

 とはいえ、収録曲は多彩だ。構成にも工夫があって、メロディアスなバラード・タイプの曲とアップ・テンポないし多様なスタイルの曲が交互に並べられている[ii]。こうした構成で成功したアルバムとしては、ブレッドのBaby, I’m-A Want You (1972)などがあるが、『アイディア』も、フォーク、カントリー、ブルース、ロック、マーチ、ボサノヴァと実に様々な音楽スタイルを取り入れている。

 

A1 「愛があるなら」(Let There Be Love)

 「光あれ」ならぬ、「愛よあれ」というタイトルだが、この時期にはめずらしく、非常にストレートなラヴ・ソングだ。

 優雅なピアノのイントロに始まり、最初のヴォーカルをバリーが取る。サビの後、イントロのメロディを発展させた中間部を歌い終わると、ロビンがヴォーカルを引き継ぐトゥイン・ヴォーカルになっている。各パートは通常の8小節ではなく、6小節を単位とするやや変則的な構成で、中間部も加わり、これまでの楽曲と比べると、かなり凝っている。

 何といっても素晴らしいのはコーラスで、「アイ・アム・ア・マン」から怒涛のハイ・トーンのコーラスが奔流のように押し寄せる。「レット・ゼア・ビー・ラヴ」のぶ厚いハーモニーには快感さえ覚える。ビートルズビーチ・ボーイズとはまた違ったコーラスの魅力がここにはある。

 本アルバムのハイライトの一曲であり、ベストの一つである。

 

A2 「キティ・キャン」

A3 「素晴らしき夏」(In the Summer of His Years)

 フォーク調の「キティ・キャン」に続き、本作でもっともスローなロビンのバラードが登場する。「そして太陽は輝く」や「リアリィ・アンド・シンシアリィ」同様、彼らしいメロディの美しいワルツ。ビル・シェパードのアレンジも相変わらず巧みな演出で、3番のスキャットにかぶさる鐘の音もノスタルジックな情感をかき立てるが、あまりにドラマティックすぎるという感想もありそうである。

 しかし、原題の「彼」がブライアン・エプスタインのことだとは驚いた[iii]。「彼の人生の夏。彼はいつも微笑んでいた。笑いが絶えることはなかった。彼が今もここにいれば。彼の人生の夏の日に。」ロバート・スティグウッドとの繋がりからとはいえ、この時期のビー・ジーズが音楽以外にもビートルズの影響下にあったことがわかる。

 

A4 「インディアン・ジンとウィスキー・ドライ」(Indian Gin and Whisky Dry)

 前曲とはうって変わって、コミカルなイントロで始まるカントリー・アンド・ウェスタン調の曲。「クレイズ・フィントン・カーク」などと同様、これもロビンの一面といえる[iv]

 しかしウェスタンにしては不思議な雰囲気で、ヘヴィなモーリスのベースはともかく、オーケストラのアレンジもロビンのヴォーカルもいやにクールで冷めた印象を与える。むしろ幻想的ともいえる。酔っぱらいの幻覚の歌だから?

 タイトルは、実際にロビンが休暇中にインドのレストランで見かけたメニューから取った、という[v]

 

A5 「ダウン・トゥ・アース」(Down to Earth)

 Aサイドでは3曲ロビンのヴォーカル・ナンバーが続く。この曲も3拍子だが、イントロは重々しいピアノにベース。何やら不安にさせる幕開けで、タイトルは「分別を持て」とか「現実を見ろ」といった意味らしいが、サウンドはむしろ神秘的で、「インディアン・ジンとウィスキー・ドライ」に近いものがある。

歌詞も謎めいており[vi]、「やあ、放送は聞いたかい?君は私を落ち着かせてくれるかな?君は、自分が見ているものが本当ではないかもしれないということが信じられるかい?よく考えたまえ、諸君。ここには多くの救いを求める人々がいるのに、君は高みの見物をしている。椅子の上に立ってよく見れば、君と同じような人間が何千何万といることがわかるだろう」、とは?

歌詞が不可思議なら、曲も奇妙だが、メロディは美しい。サビのコーラスでは、空から地上を見下ろしているような(歌詞では、椅子の上からだが)爽快感を感じさせる。

 

A6 「サッチ・ア・シェイム」(Such A Shame)

 ビー・ジーズの全オリジナル・アルバム中、唯一ギブ兄弟が書いたのではない曲。しかし、ヴィンス・メローニィの作曲なので、オリジナルであることに変わりはない。

 もともとブルースが好きなギタリストらしく、ビー・ジーズの楽曲らしからぬ作品で、しかもギターよりハーモニカのほうが目立っている。

 曲は悪くないし、なかなか快調な出来だ。しかも、プロらしい。本作に比べると、良くも悪くも、ギブ兄弟の作る曲は、ある意味アマチュアっぽいことがわかる。学術的な意味の音楽教育を受けていないことが理由だろうが、とくにバリーの場合、コードからではなく、思いついたメロディをそのまま曲にしているように見受けられるので、メローニィやモーリスが書く曲とは自ずと違いが出てくるのだろう。

 バリーが歌いたがった、という話をメローニィが回想しているが[vii]、自分が作らないような曲が新鮮だったのだろうか。

 

A7 「獄中の手紙」

 アメリカ盤の『アイディア』には、「獄中の手紙」の別ヴァージョンが収録されていた(当時の日本盤はシングル・ヴァージョンをそのまま収録していた)。

 日本ではモノ録音のシングル・ヴァージョンしか聞けなかったので、後年アルバム・ヴァージョンがあるのを知って驚いたものだ。ストリングスが過剰に演出されていたり、テンポが少し遅く感じられるなど、興味深くはあったが、やはりシングル・ヴァージョンのほうが優れているだろう。またアルバム・ヴァージョンは、最後のスキャット・コーラスだけのパートがなくなっているうえに、ロビンのヴォーカルがよれよれで、どうにも違和感がある。ベスト盤などに、この曲のアルバム・ヴァージョンが収録されていたりすると、正直がっかりする。

 

B1 「アイディア」(Idea)

 Aサイドは、2、4、6曲目にアップ・テンポのナンバーが配されているが、Bサイドは1、3、5曲目となる。「アイディア」は、本アルバム唯一のロック・ナンバーである。

 この曲もピアノの一弾から始まり-「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を意識しているのだろうか-、ギターが加わって、バリーのヴォーカルへとつながる。アップ・テンポのわりに重苦しいのはピアノが基調になっているせいか。「ジャンボ」に続いて、メローニィのクラプトン張りのギターが聞きもので、この時点でのビー・ジーズのロックン・ロールとしてはベストといえる。R&B風味がやや強いのは、バリー自身が回想しているように、ローリング・ストーンズの影響で書いたせいだろうか[viii]

 

B2 「つばめ飛ぶ頃」(When the Swallows Fly)

 A面はロビンのヴォーカル曲が中心だが、B面はバリーがメインとなる。やはりモーリスのピアノが、今度は抒情的に奏でられ、バリーが彼らしいスタイルで小刻みに言葉を繋ぎながら、感情を抑えるかのように歌っていき、一転サビのところでは天空に舞い上がるようなハイ・トーンでシャウトする。「愛があるなら」と同様、切ない旋律が胸を締め付ける。

 毎度のことだが、歌詞は謎めいており、「私は、雲のように孤独にさまよう。雲の上に頭を横たえると、ほかに私ほど大きなものはいない。・・・つばめが飛ぶ頃、地球が滅ぶとき、私は自分が何者か、知ることになるだろう。つばめと私と。」・・・謎めいているというより、答えは太陽、という謎々なのか?

 

B3 「空軍パイロット」(I Have Decided to Join the Airforce)

 「空軍に入隊することを決めた」、とは、これまた意味不明だが、ノヴェルティ・ソングといってしまっては、国防軍に失礼ということになるだろうか?真面目なのか、そうでないのか、いきなり「わが祖国よ」のコーラスで始まる。リード・ヴォーカルはロビンだが、主体はコーラスで、ロックというよりマーチである・・・空軍だけに?

 「ドント・アスク・ミー・ホワイ」からの豪快かつ強引な展開は意表をつく。ロビンの奔放といってもよいヴォーカルが暴走気味に突っ走る。どちらにしても、この時期の彼らの自由な曲想には感心する。

 

B4 「ジョーク」(I Started A Joke)

 「素晴らしき夏」の後の「インディアン・ジンとウィスキー・ドライ」もギャップが激しいが、「空軍パイロット」と「ジョーク」の落差も相当なものだ。

 本アルバムのベスト、ないしはロビン・ギブのベストといってもよい曲である。

 イギリスではリリースされなかったが、アメリカではシングル・カットされ、ビルボード誌でそれまでの最高の6位にランクされた。これほど暗い曲が、アメリカでこれだけのヒットになったのも驚くが、日本でも大いに受けて10万枚を超えるセールスを記録した。コンサートでも、ロビンの定番曲であり、まさに彼の代表作というに相応しい。

 暗いといっても、ウェットな感じはなく、ロビンの突き放したような淡々としたヴォーカルはガラスのような硬質な響きをもっている。失恋の哀愁というよりも、絶対的な孤独を感じさせる曲だ。

 サウンドはフォーク調で、むしろあっさりしている。ビル・シェパードのストリングスのアレンジも控えめだが、内省的な歌詞と少ない音数で組み立てられた曲を絶妙に彩っている。

 ドイツ上空を飛ぶ飛行機のなかで、プロペラ音がメロディを奏でているように聞こえて、曲ができた[ix]、というロビンの回想は幾度も語られているが、それだけ会心作だったのだろう。「僕が冗談をいったとき、世界は泣いた。・・・僕が涙を流すと、世界は笑い始めた。・・・そして僕が死んでしまっても、世界は生き続けるだろう」という歌詞は、確かにとてつもなく暗いが、ロビンが書いたフレーズのなかでも、もっとも心に残る。

 

B5 「キルバーンタワーズ」(Kilburn Towers)

 タイトルのキルバーンはロンドン郊外のキルバーンのことかと思っていたが、オーストラリアのシドニーにあるキルバーンタワーズというビルのことらしい[x]。わざわざキルバーンの地下鉄駅(実際は、地上駅だった)で降りて、ここがキルバーンタワーズかと感慨にふけった想い出が台無しだ。

 それはさておき、曲は意外や、ボサノヴァ風で、恐らくビートルズの「ザ・フール・オン・ザ・ヒル」に影響されたのではないか、と推察する。もっとも、オリジナルよりもむしろセルジオ・メンデスとブラジル‘66がカヴァーしたヴァージョンに近いように感じる(セルジオ・メンデスのヴァージョンは68年の8月にヒットしている)。ビートルズよりもボサノヴァ色が強いということである。

 この曲も「ダウン・トゥ・アース」のようにストリングスがいやに冴え冴えとした印象だが、ビル・シェパードのこのアルバムに対する解釈を反映しているのだろうか(夏向きのアレンジとか?)。リード・ヴォーカルのバリーの歌声もクールで抑えた歌唱だ。

 アルバムのなかでは地味だが、これも心に響くメロディを持った一曲。

 

B6 「白鳥の歌」(Swan Song)

 タイトルは悲劇的だが、歌詞は「愛が音楽を生みだせば、世界中が歌いだす。僕の愛は空中に城(空中楼閣)を築くだろう」、という熱烈なラヴ・ソング。

 曲も、まるで舞踏会を思わせる華やかなストリングスに乗って、バリーが甘くロマンティックなメロディを朗々と歌い上げる。とくにサビの高音のパートは耳に心地よく、カップルでなくともうっとりさせる。

 ラストに相応しい佳曲だが、ロック・アルバムを期待する向きにはこの甘さは不評だったろう。最後、バリーが歌い終わった後、一瞬の間を置いてオーケストラが奏でる。「バーディは言う」でも使われた演出だが、ここでも見事に余韻を残して終わる。

 

[i] 裏ジャケットは、5人がソファに座っている写真で、全員眠たそうな、疲れたような表情を浮かべている(バリーとロビンは眼をつぶっている。この二人が一番大変なのだ、という表現なのだろうか)。部屋の床には、虎の敷物が敷かれていて、壁には、密林を像が闊歩している絵が飾られている。人気グループの栄光と疲労を表わしているのだろうか。

[ii] ただし、このことはイギリス原盤が日本でも再発のかたちでリリースされたときに気がついたことで、1968年に発売されたときは、曲順が、説明が面倒なくらい変更されていた。なぐさみに、以下に挙げておく。(A面)「アイディア」「愛があるなら」「素晴らしき夏」「インディアン・ジンとウィスキー・ドライ」「ダウン・トゥ・アース」「サッチ・ア・シェイム」「ジャンボー」、(B面)「獄中の手紙」「キティ・キャン」「つばめ飛ぶ頃」「空軍パイロット」「ジョーク」「キルバーンタワーズ」「白鳥の歌」。

[iii] Ibid., pp.4-5.

[iv] Saved By the Bell: The Collected Works of Robin Gibb 1968-1970 (2015)には、本作のデモ・ヴァージョンが収録されているが、作曲はロビンの単独、録音時期は1968年6月13日となっている。

[v] Idea (2006), p.6.

[vi] Ibid., p.3.

[vii] Ibid., pp.6,9.

[viii] Ibid., p.9.

[ix] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, pp.181-82;Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990; Idea (2006), p.10.

[x] Wikipedia: Kilburn Towers.

Bee Gees 1968(3)

7 「ジャンボー」(1968.3)

1「ジャンボー」(Jumbo)

 全米では57位に終わり、「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」から続けてきたトップ20入りを逃した。全英では25位で、「トゥ・ラヴ・サムバディ」の41位は上回ったが、「マサチューセッツ」以来の連続トップ10入りは3曲で途絶えた。

 という具合で、「ジャンボー」はビー・ジーズの最初の失敗作と捉えられている。確かに、これまでのシングルは、曲調は違えども、いずれもメロディに魅力があった。それが本作では決定的に欠けていると言わざるを得ない。もともとは「恋するシンガー」がAサイドで、「ジャンボー」は裏面だった、という。しかし、前者が「これはこれまでと同じようなドラマチックなバラード・ナンバーで、あまりにもこれまでのものと同様のサウンドのため、急きょ発売前になってAB面をひっくり返した」[i]、というのが1968年当時の紹介記事だった。2006年にリマスター版が出た『アイディア』のライナー・ノウツでは、メローニーとピーターセンが、「恋するシンガー」をAサイドにしようと考えていたスティグウッドに対し、「ジャンボー」を推した、とも書かれている[ii]

 しかし、所詮「ジャンボー」はB面という出来で、A面とするには物足りない。タイトルは空想の像のことで、子どもの夢に現れるファンタジーをテーマにした歌詞だが、サウンドはサイキデリック調で、エリック・クラプトン風のメローニィのギターとモーリスのメロトロンが特徴となっている。バリーのヴォーカルは軽いタッチで悪くないし、曲も駄作とまでは言えないが、かといって傑作にはほど遠い。

 アップ・テンポの曲もできます、というところを見せた。とまあ、その程度だろうか。

 

2「恋するシンガー」(The Singer Sang His Song)

 前項で引用したとおり、まさに「ドラマチックなバラード・ナンバー」といえる。「ホリデイ」や「ワーズ」もスローなバラードだったが、ここまでオーケストラを全面に押し出した作品は初めてだ。よりクラシカルな路線に寄せていった、ともいえる。

 曲は悪くない。やはり「ジャンボ」よりは上だろう。ロビンの声も伸びやかで、「アンド・ザ・パイパー・プレイド・ザ・チューン」のところで管楽器が奏でられるアレンジも巧みだ。しかし、ラストの「けれど、かの歌い手がその歌を歌うのは、ただ彼女のためだけなのだ」以外、メロディがもうひとつ弱いという印象を受ける。魅力的なフックが欠けている、ともいえる。恐らくロビンが中心となって書いたのだろうが、「マサチューセッツ」や「そして太陽は輝く」などと比較すれば、本作をシングル・リリースすることをためらった、というのもわかる。あまりにもドラマティックすぎて、アメリカ向きではないとも考えられる。

 バラードが続きすぎたからというよりも、単純に、本作がシングルとしては弱いと考えられた、というのが本当のところではないだろうか。

 

8 「獄中の手紙」(1968.7)

1 「獄中の手紙」(I’ve Gotta Get A Message to You)

 ビー・ジーズは1967年4月のデビューから1968年3月の1年間にシングル6枚をリリースした。とくに「マサチューセッツ」から「ジャンボ」までは2か月に1枚のペースでシングル盤を発売してきた(「スピックス・アンド・スペックス」を除く)。あまりのペースにアメリカでは「ワールド」が飛ばされたが、「ホリデイ」をシングル・カットしたので、やはり6枚、英米でトータル7枚がシングル発売された。市場にビー・ジーズのレコードがあふれかえることになったが、それが人気獲得の戦略であったにせよ、あるいはギブ兄弟の創作力がピークにあったにせよ、明らかに供給過多だった。とくに「ジャンボ」は、B面の「恋するシンガー」とともに出来がいまひとつと判断したのなら、発売を見合わせてもよかった。

 さすがにロバート・スティグウッドも一旦ブレーキを踏むことを決意したのか、1968年3月の「ジャンボ」以来、4か月以上シングルは発売されなかった。

 同年8月に、満を持してリリースされたのが「獄中の手紙」である。

 邦題はすごいタイトルだが、原題以上に内容を端的に表現している。当時隆盛だったメッセージ・ソングに触発されたのか、三角関係で殺人を犯した死刑囚が最後に恋人(妻)に手紙を書くというシリアスな歌詞は、これまでのシングルに比べてもリアルで、恐らくロビンが中心となって書いたのだろう[iii]。彼の熱の入れ方が伝わってくる。一方、モーリスはこの曲が嫌いだったそうだが[iv]、あまりに大げさだと思ったのだろうか。

 これまで発表してきたシングルのなかでも、一番の力作であることは確かだが、曲はまた例によってシンプルで、やはりワン・フレーズを発展させて、サビで「ホウルド・オン、ホウルド・オン」のメロディを付け加えただけ。だが、バックはかなり凝っている。2番で、ロビンがバリーのリード・ヴォーカルの背後で、スキャットでコーラスをつけ(3番では、自分のヴォーカルに同じコーラスをつけている)、さらにエンディングではサビのメロディのリフレインに「アーアーアー」の印象的なコーラスが加わって、一層ドラマティックにラストを盛り上げている。最初は三声のコーラスではなかったが、スティグウッドの指示で、モーリスを加えた3人のハーモニーで再レコーディングしたというのも、よく知られた逸話だろう[v]

 サウンド面では、モーリスのベースが注目されてきた[vi]。とくに3番でサビに入る直前のベースのフレーズが格好良い。モーリスのベース・プレイについては、1968年当時の本作のレコード評で、すでに亀淵昭信氏が褒めている[vii]。さらに、同氏は「メロディーはマサチューセッツぐらい美しいけど、題がよくない」、と述べているが、曲については評価が分かれていて、ビー・ジーズにしては曲はよくない、という評価もあったように記憶している。どちらにしても、日本ではそれまでのシングルほどヒットしなかった[viii]

 しかしアメリカでは、初のトップ10シングル(ビルボード誌で8位)となり、それに先立ってイギリスでは「マサチューセッツ」以来、1年ぶり、2曲目のナンバー・ワン・ヒットとなっている。ちなみに本作が1位になった9月4日の前週(8月28日)の1位はビーチ・ボーイズの「恋のリバイバル(Do It Again)」。翌週(9月11日)から2週連続1位になったのがビートルズの「ヘイ・ジュード(Hey Jude)」だった。つまり、BEで始まる三大グループがチャートの1位をリレーした唯一の機会となった[ix]

 

2 「キティ・キャン」(Kitty Can)

 「獄中の手紙」は、1960年代のビー・ジーズの最高傑作との評価を受けるほどとなったが[x]、同じ1968年8月発売のアルバム『アイディア』には収録されなかった。しかし、B面の「キティ・キャン」は収録された。『アイディア」のイギリス原盤は、彼らにとって初めてのシングルを含まない新曲のみのアルバムになるはずだった。・・・が、実際は本作がアルバムに収録されている、あるいはアルバムからシングル・カットされている。オール新曲のアルバム制作は、ビートルズの向こうを張るつもりだった、と推測されるが、なぜB面の曲を別に用意しなかったのだろうか[xi]

 それはさておき、本作はA面とは対照的に、陽気で明るいフォーク・カントリー調のポップ・ソングになっている。バリーが軽やかな声で、誰でもすぐ口ずさめそうなわかりやすいメロディを歌い、モーリスがハーモニーをつける。「チッ、チッ、チッ、チッ」というスキャットも軽快だ。後に何も残らないような曲だが、スムーズなメロディ展開といい、さりげないけれど、なかなか書ける曲ではない。それをサラッと書いてしまうのはさすがである。

 曲は明るいが、歌詞は「イヴには僕を喜ばせることはできないけれど、キティにはできる」、と、こちらも三角関係を匂わせる。それで「獄中の手紙」とのカプリングになったのだろうか。しかも、なかなか意味深長だ。「キティがほほ笑むと、世界は止まって見える。・・・イヴはよくない。僕をひどい目に合わせる」、ときて、「彼女たちは二人で、僕は一人。誰とでも恋に落ちるわけにはいかない。二人のどちらかを選ばなきゃならない。決めたよ。僕は君を選ぶ。」相手を「君」というだけで、イヴともキティとも言っていないのがみそだ。さて、「僕」はどちらを選んだのだろう?

 

 マーブルズ「オンリー・ワン・ウーマン」(The Marbles, Only One Woman, 1968.8)

1 「オンリー・ワン・ウーマン」(Only One Woman, B, R. and M. Gibb)

 ロバート・スティグウッドが契約したグレアム・ボネットとトレヴァー・ゴードンからなる二人組のマーブルズに、ギブ兄弟が書いた曲。

 基本的にワン・フレーズからなる、この時期のギブ兄弟ならではのシンプルこのうえない楽曲。ボネットは、シンプルすぎるといったようだが[xii]、ごもっともな話だ。ボネットほどの歌唱力があれば、それは歌いがいがないだろう。

 しかし、アメリカでは不発だったが、イギリスでは5位まで上昇するヒットとなった。ソングライター・チームとして、ビー・ジーズが最初に手にした成功例となった。

三拍子のスローなバラードだが、後にリッチー・ブラックモアズ・レインボウのヴォーカリストとなるボネットの圧倒的な声量によってドラマティックかつパワフルなソウル・バラードとなっている。ビー・ジーズ、とくにバリーにしてみれば、全編絶叫し続ける本作は、ボネットの声があってこそ映える、と思えたのだろう。後年のバーブラ・ストライサンドらのプロデュースで示したような、「自分に歌えないような曲でも、歌手に合わせて作曲する」という-作曲家ならある意味当然ではあるが-考えを実践して、成功した最初の機会となった。この経験が、80年代のソングライターとしての成功に結びついているともいえる。バックの演奏は、バリー、モーリスとピーターセンが務めている。

 

2 「キャンドルのかげで」(By the Light of Burning Candle, B, R. and M. Gibb)

 Bサイドは、よりビー・ジーズらしいメロディアスなポップ・バラード。B面には惜しい曲だ。ややサイキデリック調のオルガン(ストリングス? メロトロン?)のイントロから始まり、冒頭からA面以上にキャッチーなヴァースが聞かれ、続くハイ・トーンのドラマティックなコーラスはまさにビー・ジーズといった展開になる。

 しかし、ビー・ジーズのコーラスなら、もっと厚くできたかもしれない。正直、自分達でもレコーディングしておいてほしかった。タイトルは「ランプライト(Lamplight)」に類似している(同じ頃に書かれたからだろうか)が、できれば『オデッサ』あたりに入れて欲しかった。

 

[i] 大森康雄「またまた大胆な音の実験! 新曲《ジャンボ》に賭けるビー・ジーズ」『ヤング・ミュージック』(1968年6月号)、77頁。この記事のもとになっているのは、バリーのインタヴューでの発言らしい。Bee Gees: The Day-By-Day Story, 1945-1972, p.61.

[ii] Idea (2006), p.4.

[iii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.178.

[iv] Ibid., p.184.

[v] Ibid., p.178.

[vi] Idea (2006), p.12.

[vii] 『ヤング・ミュージック』(1968年11月号)、174頁。

[viii]マサチューセッツ」/「ホリデイ」の50万枚突破の後、「ワールド」と「ワーズ」は10万枚近く売れたが、「ジャンボ」は2万枚弱だった。「獄中の手紙」はそれよりはましだったが、売り上げは3万枚強で、1968年前半の人気は影を潜め始めた。しかしその後「ジョーク」は10万枚を超えて、勢いを取り戻した。『1968-1997 Oricon Chart Book』(オリコン、1997年)、276頁。

[ix] 『‘99 ミュージック・データ・ブック』(共同通信社、1999年)、246頁。

[x] Idea (2006), p.12.

[xi]オデッサ』に収録される「アイ・ラフ・イン・ユア・フェイス」がB面の予定だった、との推察もある。

[xii] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1968.